欧米の外電によると米国のフォード・モーター・カンパニー(Ford Motor Company、本社:米ミシガン州ディアボーン、会長:ウィリアム・クレイ・フォード, Jr、以下、フォード)が、日本国内の自動車販売事業から、年内に撤退する方針であると伝えている。
それによると、フォード・モーター・カンパニー本社は、保有する経営資源の選択と集中を目指し、日本国内の正規販売網の閉鎖並びに、新たなフォード車の輸入を停止する方針であると云う。
同社は、この施策により、来る2020年を目処に全世界規模で、2014年比5割増の940万台の販売を目指す構えと報じられた。
ちなみにフォード・モーター・カンパニーは、もとより今後の市場拡大が見込めるアジア市場への経営資源シフトを目指していたのだが、一方、日本国内に於いては、販売数で最高値を記録した1996年から右肩下がりの低下が続き、昨今は最盛期の2割にまで成績がダウン。
日本国内に於ける欧米メーカー間並びに、日本当地メーカーとの販売競争も過酷を極めるため、今後の日本国内市場で反転攻勢は難しいと判断。
より確実な成長が見込める東アジアエリアの中国等に注力する。併せて、低採算のインドネシアからも撤退する方針を表明している。
なおフォード・モーター・カンパニーは先の1月4日、子会社リビオ社を通じて、同社の「スマートデバイスリンク」(以下、SDL)の展開でトヨタと協力するべく、両社共同で仕様開発・運営を行う枠組みを構築することで合意したばかりだった。
同社は、大衆のための車造りを目指して1903年6月16日、デトロイトの元荷馬車店で11人のスタッフにより起業を果たした。
程なくフォード・モーター・カンパニーは、科学的管理法に基づくベルトコンベアによる自動車の大量生産工程を開始。後の世界恐慌を乗り越えたビッグスリーの一角でもあり、かつ延べ1世紀に亘ってフォード家の経営参画を継続してきた。
またフォードは日本と縁が深く、日露戦争終結の1905年に日本進出。20年後の1925年には「日本フォード」を正式設立している。
神奈川県横浜市の子安(現、マツダのR&Dセンターの場所)に東アジア圏で初のフォード車を製造する工場を設けて、T型フォードのノックダウン生産を開始。当時は、黎明期にあった日本の自動車産業を牽引し、日本国内最大の自動車メーカーとして君臨した時期もあった。
太平洋戦争中の1941年12月から1945年8月の期間、子安などの工場設備は日本政府に接収されたが、戦後、連合国軍の管理を経て1958年までにフォードに返還された。現在、この一帯(子安地区)はマツダのR&D(研究開発)センターとなっている。