トヨタ自動車、国内全チャネル網で全車種販売を検討へ


トヨタ自動車株式会社(本社:愛知県豊田市、社長:豊田章男)は、自らの歴史上で初の販社を誕生させた東京トヨタの創設72年目を迎えた今年。現行の国内4チャネル・約5000店規模を配する販売拠点の戦略的刷新に動き出した。

それは具体的に、販売拠点の統合などを宣言している訳ではなく、トヨタ傘下の全系列店で、全ての車種販売の取り扱いを開始するということだ。これに伴い販売車種自体も、現行の兄弟車の削減やより競争力の高い車種ラインナップに精鋭化するため現状の60弱から30程度になる見通しである。

ただ仮に国内全店舗網で一様に全車種販売を開始することになれば、現行の4チャネルの意義が薄れることから、将来到来する国内販売台数300万台時代を睨み、トヨタ系販社間の生き残りを賭けた戦いが始まることを意味する。

この新たな再スタートとなるゼロ起点は2025年だという。ここでトヨタ自動車の源流を遡ると、その創業は、大戦時の統制経済時代が色濃かった1937年8月28日のことだ。その8年後の1946年(昭和21年)には、トヨタ車販売の屋台骨となる「東京トヨタ」を発足させている。

しかしこの頃のトヨタは、自動車事業を立ち上げたばかりのいわばベンチャー企業であり、高度成長期以前の今日の自由経済社会とは異なる環境下のなか、自動車販売代金の回収で行き詰まり経営の壁にぶつかった。

そこで4年後の1950(昭和25)年に事業再建を果たすべく、販売資金と製造資金を区別する経営体制を目指して同年2月に自動車販売会社の設立構想を宣言。

丁度、前年10月にGHQ(連合国軍総司令部)が乗用車の生産制限を解除し、さらに翌11月からは自動車販売の割当配給制も廃止されて自由販売制になったことで、トヨタは販売金融(月賦販売の確立)と、販売力強化を求めて当時のトヨタ自動車工業(以下、トヨタ自工)傘下の販売部門を分離独立させ、同年4月3日にトヨタ自販を設立した。

その後トヨタの車両生産台数は、1955年に月産3000台体制に、翌1956年10~12月期に月産台数で5000台超になるなど、大型トラックの販売停滞をよそに乗用車市場が伸張。

この乗用車市場の急拡大を背景に1953年3月14日に、「東京トヨペット」をトヨタ自販の直営店として立ち上げる。この際、既存店舗網のトヨタ店は、この新たな直営店が販売上の既得権を脅かすとして反発。そこでトヨタ販社が東京トヨペットへ資本参加(資本金の20%)することで2チャンネル体制の実現に漕ぎ着けた。

さらに1957年3月にトヨタは、ディーゼル・エンジン搭載の5トン積みトラックを販売するための「トヨタディーゼル店」を立ち上げる。しかし生憎マーケットが小型トラック需要に大きく傾倒するなか、この新店舗を救う策として大衆車「パブリカ」の併売に乗り出す。

これがトヨタディーゼル店から改名した「パブリカ店」(後の1969年に「カローラ店」に名称変更)誕生につながった。結果、初代「コロナ」の発売時期にあたる1957年7月時点のトヨタ傘下の販売店舗数は、トヨタ店が49社、トヨペット店が51社、トヨタディーゼル店が9社の計109社となっていた。

その後、仮に一部にマイナス点があったとしても、その他に魅力が溢れていればマーケットを占拠できる中大型車市場とは違い、全てに80点以上の成績を獲得していないと小型車市場では勝ち残れないとするコンセプトで生まれた「カローラ」を発売。

以降、日本国内の自動車販売規模は拡大の一途を辿り、1968年3月末には全国43店網という体制で「トヨタオート店」が発足した。 さらに高度成長の余韻が残る1970年代後半、500万台規模を目指そうとする勢いの国内登録車市場(軽自動車除く)でシェア40%を確保るべく1980年4月に英語で「展望」を意味する「ビスタ(VISTA)店」を発足。これが後に「オート店」と統合して「ネッツ店」となっている。

この4チャンネル体制が今後、何らかの改革に向かう可能性については、かねてよりトヨタが首都圏の販社再編を発表して以降、外部から見ても「その時期を占うだけ」という状況にあったのだが、一方で永らく地域に密着した接客でトヨタの販売首位を支えてきた200社を超える地場の独立系経営者への気遣いもあり、トヨタといえども早々には動き難いだろうと読んでいた。それゆえに今回の動きは想定外に早かった。

ただ国内の新車販売市場は、遠からず急速な縮小に向かうこと自体確かであり、そうなってしまった後では、各販社も赤字転落後で動きが取り難くなる可能性がある。
実際、来年10月には消費税10%の引き上げも控えており、従来型の系列店維持は不可能と判断し、「のれん」型への移行を決断したのだろう。

なおトヨタは今回の全系列・全車種扱いを契機に、旧来型の自動車メーカーからMaaS企業への進化を目指しており、販社に対してカーシェアリングサービスなどの次世代事業への移行を促すものと見られる。

いわばこれはトヨタが創設以来堅持してきたビジネスモデルの大転換を意味している。

今後トヨタ自動車と販社は、「売れるクルマを造る責務」と「地域で独自の供給車種を販売する」という車両拡販での対等で共に切磋琢磨するという関係を終え、トヨタ主導で新たな事業の地平へ共に漕ぎ出すという関係に移る。

しかし旧来の車販面を考えると、例え軽自動車からアッパークラスまでの全車種を1店舗で取り揃えるからといって、同じトヨタブランド車を乗り継ぐリピーターを生むとは思えず、試乗・購入・アフターサービス・買い替えに至る顧客満足度をバリューチェーン全体でいかに実現していくのか。そもそも新たなビジネスモデルの創造を踏まえても、そこには個々販社の個性が重要になる。

この際、販社の個性をいかに薄めずに協調関係を維持していくのか、その手腕はトヨタ経営陣の舵取り次第だ。

一方でこの国内販売体制の刷新といううねりは、トヨタ系列販社間の競争を生み出し、これが台風の目となって他社メーカー店もその影響を受けざる得ない状況に陥る。

自動車業界人のなかでもその捉え方は様々だが、人よっては「過剰」とも称するトヨタの危機意識が今概要の原点だ。ただし競合メーカー各社はこれを対岸の火事として眺めている状況ではない。トヨタ以外のメーカー各社も、未来に向け自社ブランドの生き残りを、より俊敏に考えていかざるを得ない。

それは後のビジネスマン達の創作であるともいわれるダーウィンの進化論の一節をなぞらえることに他ならない。「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、より俊敏に変化に対応できるものである」(坂上 賢治)