ジョン・レノンが愛したサイケなロールス・ロイス・ファントムVが英国展示へ


ロールス・ロイス・モーター・カーズ(本社:英ウェスト・サセックス州グッドウッド、CEO:トルステン・ミュラー・エトヴェシュ)は、英国・ロンドン時間の7月29日から8月2日までの間、ミュージシャンのジョン・レノン氏がかつて所有していた歴史の証人とも云える1965年型ファントムVを展示・披露する。

そのクルマが登場する舞台は、先のロンドンに於いても最もラグジュアリー感溢れるニューボンドストリートのギャラリー「ボナムズ」で開催される『ザ・グレート8ファントム(The Great Eight Phantoms)展』である。

ここにジョンが、永年所有していたファントムVを展示。加えて同イベントで、この程フルモデルチェンジされるファントムVIIIも初公開される予定だ。

さてジョンのファントムV。その出で立ちは、今見ても実に過激であり、1950年代当時、楽曲そのものが画期的であった「サージェント・ペパーズ…」のサイケデリックなアルバムジャケットのために仕立てたかのような仕様を現在も垣間見ることができる。

そもそも労働階級の街「リバプール」で生まれ育ったジョン・レノンが、一風変わった富豪の生活に憧れ、このトップ・オブ・ザ・カーを発注したのは、今を遡る約半世紀前の1964年のこと。

その当時から、まさに「生来の大金持ちの象徴であった」ファントムV。その仕様は漆黒のボディを持ち、当然のことながら、お抱え運転手がドライブし、後席に座る重要人物を静々と目的地へと、送り届けるための完全なショーファーカーであった。

その後部座席には、広大な空間が用意されており、ジョンは、そこにフローティングスタイルのレコードプレーヤーと、8トラック・プレーヤーを備え付けていた。

その当時、運転免許を持っていなかったジョンは、無線電話と、追加で搭載した冷蔵庫を利用して、日々快適な移動空間を愉しんだとされる。なお、その車両の価値は、かつて1980年代に於いても2億6000万円に昇るとされていた。

そんなジョンのための特別車両が納車されたのは、車両を発注したその翌年。米国航空宇宙局の宇宙飛行士、エドワード・ヒギンズ・ホワイト2世が、アメリカ人初の宇宙遊泳を行った1965年のこと。

その年のザ・ビートルズのメンバー達は、バッキンガム宮殿へMBE(大英勲章第5位)を受け取りに行く時の足として使用したクルマこそがこの1965年型ファントムVであり、ビートルズファンにとっては、正真正銘の記念すべきクルマでもある。

その翌年1966年に作られたコメディー映画の『ジョン・レノンの僕の戦争』の撮影中に、そんな自慢の車両がダメージを受けたことから、ジョンはこの機にファントムVを修理に出し、テレビを追加したり、後部座席をベッドとして使える様改造したりした。

そして迎えた翌1967年、彼らにとっても、今に至る音楽ファンにとっても、さらに社会の成り立ちを印していく人類の歴史にとっても金字塔となったアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の発売年に、さらなる車体のカスタマイズを施している。

それは、ボディ外板を黄色のベースカラーとし、放浪するジプシーのキャラバンや、西洋占星術に影響を受けたとされる花や模様をあしらったもの。

その姿は後の世間に「サイケデリック」という言葉を浸透させる役割を担ったとされている。

2年後の1969年にはジョン・レノンが、この「サイケデリック・ショーファーカー」に乗ってバッキンガム宮殿に再び訪れ、英国のナイジェリア内戦への軍事介入、ベトナム戦争へ邁進する米国への支援を抗議し、一旦授与されたMBEをエリザベス女王に返却するために使われた。

その後、ファントムVはジョンの渡米にあたって1970年に大西洋を渡ってアメリカへと送り出され、その後、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ムーディー・ブルースなど、その当時のホットな音楽シーンに度々登場している。

そして迎えた1977年、このファントムVは、米国の億万長者ジム・パティソン氏(Jim Pattison)によって、ブリティッシュコロンビア州ビクトリア所在のブリティッシュ・コロンビア博物館に寄贈されて、現在に至り、その余生を静かに積み重ねている。